霧が死体を抱いていた。
沢田桂子は立ち止まり、自分の目を疑った。薄明かりの中、御影カントリークラブの第18番グリーンの上に、紺色のゴルフウェアを着た男が仰向けに倒れていた。右手は胸の上で静かに折り畳まれ、左手だけが芝生の上に伸びていた。まるで眠っているようだった。いや、眠っているにしては静かすぎる眠りだった。
男の顔は桂子の方に向いていた。天童雅文、六十五歳。御影カントリークラブ代表理事。昨夜、創立五十周年の祝賀パーティーで、乾杯の音頭を取っていた男が、今、夜明けの霧の中に横たわっていた。
桂子は男に歩み寄り、首筋に二本の指を当てた。脈はなかった。皮膚は冷たく、朝露に湿っていた。少なくとも数時間は経過している。彼女はゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡した。
コースは静まり返っていた。霧が木立の間から漂い、フェアウェイの輪郭を溶かしながら這ってくる。百八十ヤード先のフェアウェイは白い靄の中に消えており、バックグラウンドのグリーンの丘も輪郭を失っていた。第18番ホール。距離四百二十ヤード、パー4。このコースで最も難しいホールで、かつて御影カントリークラブのプロが世界に名を轟かせたホールでもある。
桂子はポケットからスマートフォンを取り出し、まず警察に電話した。次に、周囲の写真を撮った。職業的な習慣だった。ゴルフ専門誌「ゴルフ・マガジン」の敏腕ライターとして十二年。その前は十五年間、女子プロゴルファーとして日本ツアーを転戦した。その目は何でも見る。全てを記録する。感情は後で処理する。
御影カントリークラブが一年で最も輝く夜があるとすれば、それは昨夜だった。
創立五十周年記念パーティー。クラブハウスの大広間には三百名の招待客が集まり、神戸の夜景を望む窓の外には間接照明で照らされたコースが広がっていた。白いクロスで覆われたテーブルには、バカラのシャンパングラスが並び、フランスのシャトー・マルゴーが惜しげもなく注がれていた。
桂子がこのパーティーに招かれたのは、一週間前のことだった。編集部宛に届いた手書きの招待状。「御影カントリークラブ創立五十周年記念特集の取材として」という名目だったが、桂子には奇妙な感覚があった。手書きの招待状などというものは、この時代に珍しい。送り主の名前は、「御影晴人」となっていた。
その名前を見た瞬間、桂子の胸の内側で、古い記憶が動いた気がした。しかし、それが何の記憶なのかを確かめる前に、彼女はもう編集長に報告していた。
パーティーの会場に足を踏み入れた桂子は、まず人々の顔をひとつひとつ確認した。プロゴルファー時代から培った習慣で、彼女は部屋に入ると常に全員の位置を把握する。
上座には天童雅文が立っていた。濃紺のダブルスーツに金のカフリンクス。彼の周囲には、政財界の顔役たちが群れをなしていた。桂子は天童のことを知っていた。知らないゴルファーはいないだろう。不動産開発で財を成し、このクラブを二十年前に実質的に支配下に置いた男。口の悪い業界人は彼のことを「十八番グリーンの帝王」と呼んだ。彼の気分を損ねたプロやキャディは、翌月にはクラブを去ることになっていた。
天童の右隣には早坂憲一が立っていた。六十二歳。ゴルフ委員会会長で、代々続く神戸の旧家の当主。細身の体に白髪が映える紳士だったが、その夜の彼はシャンパングラスを持つ手が微かに震えていた。目が笑っていなかった。それとも、桂子の見当違いか。
窓際のテーブルには、アメリカ人の男が一人で座っていた。ライアン・ホワイト。四十五歳。ニューヨークを拠点とするヘッジファンドマネージャーで、五年前にこのクラブのシニア会員に加わった。見た目は彫刻のように整っていて、その目は常に計算しているように見えた。彼はパーティーの喧騒の中で一人、誰とも話さず、ただ観察していた。
そして、桂子の視線が部屋の端に止まった。
白と黒のサービスユニフォームを着た若い男が、壁際で静かにシャンパングラスを補充していた。二十代後半だろうか。背が高く、手足が長い。美しいという言葉が似合う顔立ちだったが、それよりも印象的なのは彼の目だった。何も表情のない目。感情のフィルターを完全に排除したかのような、無色の瞳。その目が、ふと桂子と合った。
男は一秒だけ桂子を見つめ、それから視線を外してグラスを補充し続けた。
黛理沙が近づいてきた。クラブのコンシェルジュマネージャーで、三十九歳。鮮やかな藤色のドレスに黒髪を結い上げ、場の誰よりも優雅だった。
「沢田先生、遠くからありがとうございます」と彼女は囁いた。「先生の原稿をいつも拝読しています」
「光栄です」と桂子は答えた。「あちらの若い方は?」と、さりげなく壁際の男の方向に目を向けた。
黛の表情に、微かな変化が走った気がした。気のせいかもしれない。
「今期から着任したキャディマスターです。御影晴人さんとおっしゃいます」黛は少し間を置いた。「お父様も昔、このクラブにいらした方で」
御影。その名前を、桂子はもう一度、心の中で繰り返した。
パーティーが佳境を過ぎた頃、桂子はテラスに出た。神戸の夜景が眼下に広がり、遠くに大阪湾の黒い水面が光っていた。冷えた夜風がシャンパンの酔いを緩やかに覚ました。
テラスには彼女の他にもう一人いた。御影晴人だった。
彼は手すりに両手をついてコースを見下ろしていた。夜のコースは照明の届かない部分が黒く沈み、フェアウェイの起伏だけが月光に浮かんでいた。
「招待状、あなたが書いたんですね」と桂子は言った。推測だったが、確信があった。
晴人は振り返らなかった。
「ご来場いただき、ありがとうございます」
「なぜ私を呼んだのですか」
今度こそ、彼は振り返った。月明かりの下で見る彼の顔は、昼間よりずっと端整に見えた。そして、その目はやはり、あの無色の瞳だった。
「このクラブの五十年を、正確に記録してほしかったからです」彼は言った。声は穏やかで低く、感情の起伏が全くなかった。「真実を書ける方に」
「真実というのは」
「このクラブが何でできているか、ということです」
桂子は彼をじっと見た。若い男の横顔。どこかで見た顔だという感覚が、再び蘇った。しかし、それを確かめる前に、パーティー会場の中から大きな笑い声が聞こえてきて、二人の間の空気が変わった。
「良い夜を」と晴人は言い、テラスの中へ戻っていった。
桂子は一人、暗いコースを見下ろした。十八番ホール。月に照らされたグリーンが遠く白く輝いていた。
サイレンの音が遠くから聞こえてきた。桂子は手元のスマートフォンに撮影した写真を確認しながら、もう一度、天童の遺体を観察した。
死因はおそらく心臓発作だろう、と思った。天童は心臓に持病があることを知っていた。昨夜のパーティーでも、誰かが「天童さんはペースメーカーを入れている」と話していた。六十五歳の男が、夜明けのコースで倒れる。珍しくない。不自然でもない。
しかし。
桂子の視線が、天童の右手に止まった。
ゴルフグローブが嵌っていた。右手に。
桂子は昨夜のパーティーを思い返した。天童は確かにグローブをつけていた瞬間があった。出席者に冗談を言いながら、サイン入りのゴルフボールを手渡す前に、左手にグローブをはめていた。彼女はその場面を確かに見ていた。
グローブが右手についている。
それは何を意味するのか。心臓発作で倒れる直前に、人は手袋を付け直さない。つまり、倒れた後に、誰かがグローブを動かした。あるいは最初から、グローブをつけたのは天童自身ではなかった。
「沢田さんですか」
振り返ると、制服姿の警察官が三人、フェアウェイを歩いてくるところだった。桂子は立ち上がり、スマートフォンを上着の内ポケットにしまった。グローブの写真はある。後で確認する。
今は何も言わない。何も言わない、と彼女は自分に言い聞かせた。根拠のない推測を口にする前に、もっと調べなければならない。
事情聴取は一時間で終わった。警察の担当者、森本刑事は、どう見ても桂子の話に興味がなかった。持病持ちの老人が早朝にコースを歩いていて倒れた。悲しい事故だが、珍しくもない。
「検視の結果が出るまでは何とも言えませんが」と彼は言った。「状況からすると、心疾患による急性心不全かと」
「グローブについては」と桂子は言った。
「失礼ですが」と森本は言い、少し首を傾げた。「グローブ?」
「右手にゴルフグローブがついていました。天童さんは右利きです」
森本は軽く頷き、手帳に何かを書いた。書いていないかもしれなかった。
「参考にします」
桂子はロビーのソファに座り、コーヒーを注文した。クラブハウスはまだ静かで、昨夜の宴の残り香が漂っていた。花瓶の白い百合がまだ新鮮だった。
窓の外のコースには、警察が黄色いテープを張り始めていた。第18番グリーン。天童雅文が死んだ場所。
桂子はポケットから昨夜の写真を確認した。その中に一枚、グリーンの端に落ちていたものを撮った写真があった。スコアカードだった。
警察もおそらく回収しているだろう。だが、写真には全てが映っていた。十八ホール分のスコア。誰かが一人でラウンドした記録。天童のスコアかどうかは分からない。しかし、その最後の欄が気になった。
十七ホールを全てパーでまわり、最後の十八番だけバーディー。完璧なパープレー、ではなく、わずかに上回るスコア。
バーディー。パーより一打少ない。
桂子はスコアカードの写真をじっと見つめた。
誰かがこれを意図的に残した、と彼女は思った。なぜかは分からない。証拠を残すことが目的の殺人犯がいるとすれば、それは二つのうちのどちらかだ。非常に愚かな人間か、あるいは——
思考の途中で、桂子は顔を上げた。
ロビーの反対側、窓際のテーブルに御影晴人が一人で座っていた。コーヒーカップを両手で包むように持ち、コースを見ていた。警察がテープを張る様子を。ちょうど桂子と同じように。
視線に気付いたように、晴人は桂子を見た。
何も言わなかった。表情も変えなかった。ただ、一秒だけ桂子と目を合わせ、また窓の外を見た。
★ BIRDIE ★桂子はコーヒーカップをそっとテーブルに置き、手帳を開いた。新しいページの最初の行に、一言だけ書いた。
「これは事故ではない。」
外では、霧が晴れ始めていた。
しかし桂子には分かっていた。本当の霧は、これから始まる。