19番ホールの神様
異世界転生ゴルフ
雨の匂いがする。その匂いを嗅ぐたびに、俺は決まってゴルフ場を思い出す。
三十八歳。独身。大阪の広告会社で中間管理職をやっている。名前は坂本健司。
会社では「使いやすい便利な人間」、部下からは「ちょっと面倒な上司」、上司からは「もう少し結果を出してほしい男」。そして自分自身から見た俺は——ただの、どこにでもいるサラリーマンゴルファーだった。
仕事は嫌いじゃない。だが好きでもない。年収は平均より少し上。貯金もそこそこ。結婚の予定はなし。休日はゴルフ。人生の楽しみと言えばゴルフだけ。そんな男だった。
その日も取引先との接待ゴルフだった。六月の蒸し暑い日。スコアは最悪。前半49。昼飯のカツカレーは冷めていた。
部長は機嫌が悪い。取引先は接待され慣れていて愛想笑いしかしない。最悪だった。
十七番。短いパー3。俺はイライラしていた。ティーショットを打つ。引っ掛けた。池。「チッ」。珍しく舌打ちした。
すると隣にいた取引先の社長が言った。「坂本さんって、ゴルフ好きですよね」「え?」「いや、好きな人の顔してるから」。俺は笑った。「好きですよ。でも下手です」。社長も笑った。
「好きと上手いは別ですからね」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
十八番。ドライバーを振り抜く。完璧だった。今日一番の当たり。青空へ伸びていく。だが次の瞬間。雷が落ちた。
視界が真っ白になった。音も消えた。世界が砕けた。
気が付くと、俺は芝生の上に寝ていた。空が紫色だった。雲が二重に流れている。太陽が三つある。「は?」
起き上がる。周囲を見渡す。ゴルフ場だった。だが見たことがない。フェアウェイは銀色。ラフは青い。池が光っている。「夢か?」
すると遠くから、馬のようなものが走ってきた。いや馬じゃない。ドラゴンだった。小型の。しかもキャディバッグを背負っている。
「お目覚めですか」。ドラゴンが喋った。俺はその場で気絶した。
目覚めると城の中だった。どうやら異世界らしい。名前はグリーンディア王国。国民の娯楽はゴルフ。
いや、娯楽どころではない。政治も経済も戦争も、ゴルフで決まる。国王ですらハンデキャップを持っている。「馬鹿だろ」。思わず言った。だが本当だった。
隣にいた老執事が真顔で言う。「ゴルフは神聖な競技です」「いや意味分からん」「神が作りました」「もっと分からん」
数日後。俺は国王に会った。国王は開口一番こう言った。「異世界人よ。そなたは救世主である」。嫌な予感しかしない。案の定だった。
この世界には魔王がいる。そして魔王もゴルフが強い。五年前の王国決戦で王国代表が敗北。毎年、領土を奪われているらしい。
「つまり?」「魔王を倒してほしい」「戦うの?」「ゴルフで」。俺は頭を抱えた。だが断れなかった。なぜなら、帰る方法も分からない。こうして俺は王国代表になった。
しかし問題があった。俺は上手くない。日本では平均90前後。たまに80台。競技ゴルファーですらない。
だがこの世界の人間は、俺のスイングを見て驚いた。「なんて合理的な動きだ」「下半身主導だ」「神の理論だ」。
どうやらこの世界のゴルフ理論は、めちゃくちゃだった。手打ち全盛期。だから俺でも強かった。
だが本当の敵は、別にいた。王国最強プレーヤー。エリシア。二十五歳。美女。金髪。身長170センチ。王国の英雄。そして性格は最悪だった。
「あなた弱いですね」。初対面で言われた。「いや普通だろ」「普通は弱者の言い訳です」。腹が立った。
だが彼女は本当に強かった。飛距離350ヤード。魔法も使う。しかも美人。天は二物どころか、五物くらい与えていた。
だが一緒に練習するうちに分かった。彼女は孤独だった。強すぎるから。誰も本音で話さない。皆が英雄として扱う。失敗も許されない。
だから人を見下していた。先に壁を作ることで、傷付かないようにしていた。それが分かった瞬間。少しだけ、好きになった。
半年後。俺たちは仲間になっていた。時々喧嘩もした。笑った。酒も飲んだ。夜の練習場で語った。人生について。夢について。ゴルフについて。
「坂本」「なんだ」「あなたはなぜゴルフをするのですか」。俺は少し考えた。そして答えた。「分からない」「は?」「本当に分からない」。彼女は呆れた。
だが俺は続けた。「ナイスショットすると嬉しいだろ」「ええ」「ミスすると腹立つだろ」「ええ」「それだけだよ」。
彼女は黙った。しばらくして笑った。初めて見る笑顔だった。「馬鹿ですね」「知ってる」
決戦の日。舞台は魔王城。全十八ホール。負けた国は滅亡。勝った国は繁栄。観客十万人。異常な世界だった。
魔王が現れた。巨大だった。二メートルを超えている。角がある。筋肉もある。だが握っているのはドライバーだった。「待ってたぞ異世界人」。意外と礼儀正しかった。
試合は壮絶だった。互角。いや、少し負けていた。魔王は強かった。異常なほど。十六番終了時点。二ダウン。残り二ホール。絶望的だった。
その時だった。俺は突然、思い出した。会社のこと。部下のこと。理不尽な上司。接待ゴルフ。終電。孤独なマンション。コンビニ弁当。全部。嫌だった思い出。
だが不思議だった。今となっては、全部愛おしい。俺は生きていたのだ。退屈で。つまらなくて。平凡で。最高に人間らしい人生を。
異世界に来て初めて気付いた。俺は案外、自分の人生が好きだった。
十七番。パー5。二オン成功。イーグル。一アップ。観客が揺れた。
十八番。最終ホール。魔王と並ぶ。グリーン奥。十五メートル。難しい下り。外せば負け。
俺はボールを見る。芝を見る。空を見る。そして笑った。なんか、どうでも良くなった。勝っても負けても。人生は続く。ゴルフも続く。たぶん、それでいい。
打つ。ボールが転がる。曲がる。また曲がる。最後に一筋。カップへ吸い込まれた。
歓声。地鳴り。王国中が震えた。優勝した。世界は救われた。王国は歓喜した。エリシアは泣いた。
魔王は笑っていた。「良いパットだった」。そう言って握手した。
その夜。俺は神様に会った。白髪の老人だった。「帰るか?」。神様は言った。俺は迷った。
異世界には仲間がいる。英雄になれた。尊敬もされた。だが。少し考えて、答えた。「帰るよ」「なぜだ」。俺は笑った。
「次の土曜日に予約入ってるから」
神様は、大笑いした。
目が覚めた。十八番ホール。雷雨の後だった。救急車が来ていた。どうやら気絶していただけらしい。病院で検査した。異常なし。夢だったのかもしれない。
一か月後。いつものホームコース。朝六時。一人予約。知らない三人とラウンド。普通の日。
スタート前。バッグを見る。するとポケットの中に、見覚えのないマーカーが入っていた。金色だった。そこには小さく刻まれていた。「Good Luck」。そして裏には——エリシアの名前。
俺はしばらく、動けなかった。風が吹く。鳥が鳴く。朝日が差し込む。
一番ホール。ティーグラウンド。人生は相変わらずだ。会社もある。上司もいる。悩みもある。給料も、急には増えない。
だがクラブを握る。ボールを置く。空を見上げる。そして思う。
たぶん、人生はゴルフに似ている。ナイスショットもあれば、池もある。理不尽なバウンドもある。完璧な当たりが木に当たる日もある。だけど、次の一打は打てる。それだけは平等だ。
俺はティーアップした。深呼吸する。そして振り抜く。白いボールが、朝焼けの空へ吸い込まれていった。まるで、まだ見ぬ異世界へ向かうみたいに。
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